第19回東京国際映画祭レポートvol.2
【10/24 火曜日】
今日は六本木ヒルズで開催される「全国映画祭コンベンション──”映画祭の現在”」へ出席する。第1部のシンポジウムでは、「ゆうばり映画祭を考える市民の会」代表の澤田直矢氏、「山形国際ドキュメンタリー映画祭実行委員会」事務局長の宮沢啓氏、「あおもり映画祭」実行委員長の川島大史氏、「NPO法人神戸100年映画祭」代表理事の岡本好和氏が壇上にのぼり、それぞれの現状を報告。
争点は、地方公共団体からの助成金を得ることがますます厳しくなる状況下で、いかにして映画祭を存続させることができるか。財政破綻したゆうばり市は、もちろん映画祭に予算をあてることなど不可能。したがって、今後はNPO法人としての再スタートを切ることが余儀なくされているという。そこで、小規模ながら映画祭を運営するのに成功してきた「あおもり映画祭」と「神戸100年映画祭」の事例が参照される。「神戸100年映画祭」は、震災直後の96年に、市の助成金1億5000万円を得て華々しくスタート、大成功を収めるが、以降は予算が縮小され続け、現在はほぼ会費のみで運営されている。まさに有志たちによる「手作り」の映画祭である。また、「あおもり映画祭」も小規模ながら、地方へ映画監督を招き、新作のロケ地として使ってもらうなど、映画作家との交流を積極的に組み入れることが活況の要因であると報告される。
気になる「山形国際」だが、宮沢氏は2007年も通常通りの規模で開催すると宣言。会場からは、「山形市長が来年は助成金を打ち切るつもりだと述べるニュース記事をみかけたが」との質問も飛ぶが、宮沢氏はきっぱり否定。議会を通さない限り確定はしないものの、来年もまた市の協力を仰げるだろうと述べている。ただし、「山形国際」もNPO法人化し、市と独立して運営していく方針をとる点では「ゆうばり国際」と変わりはない。今後、会員を広く募る予定である。
映画祭の規模が縮小されるのは悲しむべきことだが、しかし、映画ファンとしてみれば、自腹を切って会員になり、「手作り」の映画祭に協力するというのも、また実に魅力的な映画とのつき合い方になるだろう。「あおもり映画祭」と「神戸100年映画祭」の報告を聞くとそんな気にもなった。
第2部のシンポジウムでは、世界で最も尊敬される映画祭ディレクターにして映画プロデューサー、マルコ・ミュレール氏が登場。約40分間の講演を行う。ミュレール氏の趣旨は極めて明快。すなわち、映画祭とはそもそも多くのひとが集まり、様々なアイディアが行き交う場である。そして、優れた映画が上映されるのであれば、「映画が」ひとを動かす。なによりも映画ありきなのである。収益性を考えることは無論必要であるが、しかしここに集まる観衆(audience)は、例えばテレビの視聴者のごとき抽象的な数字のことではなく、むしろ特異な個々人がいかにして互いに刺激を与えあえるかを考えるべきである。
プロデューサーとしての観点からは、映画祭が存在することによってはじめて撮れる作品があり、そうした映画を存在せしめるためにも映画祭は必要であると述べる。こうしてアレクサンドル・ソクーロフらの作品がミュレール氏の手によって世に出されていることは記憶に新しいが、はじめから商業的な視点で販売促進を狙うというのとはまさに真逆の姿勢である。場内には経営困難な状況で奮闘する地方の映画祭運営者たちが多く集まっていたが、ミュレール氏の「バック・トゥー・オリジン」な主張に、期せずして万雷の拍手が寄せられた。
ミュレール氏の講演を聴いた後、レセプション会場が設けられていたので、flowerwildの同僚とふたり、ふらふらと立ち寄ってみると、そこにはつい先日インタビューに応じていただいた蓮實重彦先生が。頭ひとつ出ているので遠くからでもすぐにわかる。「先日はどうも」とご挨拶すると、蓮實氏は「マルコのインタビューとりたいんでしょ」とズバリ。「ちょっと来なさい」というなり、人だかりの中心にいるマルコ氏のところへのしのしと歩いていかれる。慌ててついていくと、マルコ氏と冨田三起子さんが大勢の来客の応対に追われててんてこ舞いの状況だが、なんとインタビューのために30分の時間を作っていただけることになった。次号特集「CinemaScape──映画のある場所」に掲載しますので、乞うご期待。(後記:ミュレール氏とのインタビューは順延になりました。お詫び申し上げます)
【10/25 水曜日】
『松ヶ根乱射事件』(@渋谷オーチャードホール)
親父が三浦友和、という設定がまず決定的。親父と息子、旧と新、などという対立そのものをはぐらかすいつもながらの存在感なのだ。第1回東京国際映画祭でヤングシネマ大賞をとった相米慎二の『台風クラブ』(1986)も思い出される。こっちでは先生役に三浦友和。生徒とまるで目線が同じで、「オレは卑怯ものなんだよ!」と子供相手に痛切に開き直る名場面がある。どちらの場合も、世代間の葛藤と和解の予定調和に落ち着くのではなく、それぞれの孤独を共鳴させる試みなのだ。孤独、といったら大げさだけれど。ついでに、ヒューマンな落とし所で奇麗に締めた西川美和の『ゆれる』(2006)についても、親父に伊武さんが選ばれている点では、同様にクリティカルだったと思う。オダギリジョーが最後に上映する8ミリ映像の中の伊武さんに改めて注目してほしい。もうひとつひっくりかえるはず。
『松ヶ根乱射事件』の主題は、だからそもそも「弛緩」であるし、その点、なしくずし的に村落共同体の絆が脱臼していく構成は見事なのだが、肝心の画面まで少し弛緩気味だったような。曇り空の下、被写体をうすぼんやりと捉えるところは、いつも通りといっていえないことはないけれど、『どんてん生活』(1999)以来目にしてきた固定ショットの冴え、スリリングなトラッキングショットに匹敵するものが見つからず、その点では期待が満たされなかった。もし作品が「終わりのない平坦な日常、その閉塞感」みたいな、それ自体虚構でしかない物言いに感染してしまっているのだとしたら、それは問題ありだと思う。象徴表現の安直さもほんの少しだけ気になった。
『十三の桐』(@プレス試写)
監督のメッセージに、「この映画を作るにあたって、私は現代高校生の生活を深く観察した。その結果わかったのは、我々は彼らをまったく理解していないということだ」とある。でも、その高校生の主人公たちが恋愛を育む場面が、「河原で水切り」だったり、本当に「彼らをまったく理解していない」様子だ。冒頭の手持ちカメラなども、「若作り」の印象。この作品の真の主人公は、だからむっつりと黙る親たちだったというべきだろう。「アジアの風」部門では、中国新世代の作品が続々と取り上げられているけれども、なぜにこちらがコンペティションに入ったのか。
渋谷で最後に『決闘高田馬場』(1937)(「ニッポン・シネマ・クラシックス」)を見た後、『チェンジ・オブ・アドレス』のエマニュエル・ムレ氏がいるという居酒屋の末席に。プロデューサーのフレデリック・ニーデルマイエール、主演女優のフレドリック・ベルもいて、焼き鳥などを食べている。監督に「ルビッチはどうか」などと振ってみると、「ルビッチは僕にとって神様だ」との返答。「ハーバート・マーシャルいいねえ!」という調子でルビッチ・ラブを切々と説いてくれたのだが、ムレ氏はほんとうに映画ファンがそのまま監督になったような印象。なんでも、ムレ氏が日本の片田舎で日本人女性と恋に落ちるという企画もあるらしく、3、4年後に実現しないかなあ、ともいっていた。ベル嬢は、綺麗なひとだったけれど、独特の奇人ぶりに圧倒される。スクリーンのまんま。
ニーデルマイエール氏は監督と同じ映画学校(FEMIS)の出身。雰囲気はバリバリのビジネス・パーソンというよりは、フリーターといったほうがいいだろう。親近感がわく。「自分たちの身の丈にあった規模で、作りたいと思える作品を作り続けられればそれでいい」ときっぱり。また、「英語字幕しかないから作品見ても正直きついんだよね」といい、映画祭より夜遊びに励んでいる様子だ。『チェンジ・オブ・アドレス』の作風通り、作り手たちはしたたかなマイペース人間だった。「昨日3時間しか寝てない」といいつつ、タクシーでまた夜の街に繰り出していった。
【10/25 水曜日】
『OSS 117 カイロ、スパイの巣窟』(@渋谷オーチャードホール)
1960年代スパイ・サスペンスのパロディ。上映前に監督のミシェル・ハザナヴィシウスが壇上にあがり、コメントを述べる。「みなさん、フランスのコメディはあまり見たことないと思うが、ぜひこれで認知してほしい」とのこと。また、「いい焼肉屋につれていってくれ」など、フランクでノリのいいところをみせ、客席の笑いを誘っていた。同じフランスのフレデリック・ムレ氏とはある意味、対極である。
内容は、期待を裏切らない上質なバカ映画。アングロサクソン系の豪快パロディに比べれば、線の細さは否めないけれど、ディティールへの異常な偏執ぶりには唖然とさせられた。なんというか、マメ。例えばレトロなスクリーンプロセス(自動車の車窓に流れるちゃちなハメコミ映像)など、ほんとうにきっちり再現している。
『夏が過ぎゆく前に』[アジアの風・新作パノラマ](@TOHOシネマズ六本木ヒルズ)
1964年生まれの韓国の女性監督ソン・ジヘのデビュー作。主演女優は『チング』のキム・ボキョン。キム嬢のクロースアップが素晴らしい。美人なのだけれど、素人俳優的な神経過敏さがあり、彼女の瞳が危うく震えるところが執拗に捉えられる。つまり、彼女の顔が世界の鏡になるという空間設計。窓や鏡がキム嬢のまわりに幾重にも配されて、造形的主題が強調されている。浜辺のホテルの一室、俯瞰気味に据えられたカメラが窓の外に海を写し、そこに小さな一艘の船がフレームインしてくるところなど、実にスリリングなのだ。処女作ならではの瑞々しさを堪能できる作品である。監督は映画の教授でもあるそうだが、上手さに関しては、おそらくもっと若い自主映画キッズたちのほうが上だろう。『2:37』など、すごく上手かったし。ただ、多少下手でもいいから、この瑞々しい何ものかを見せてくれる作品のほうが断然貴重だ。ただ、上映終了後のティーチ・インで、「監督はご自分の作品を評価されて、100点満点で何点をつけますか」というような質問が飛んでいたころをみると、この「何ものか」は、贅沢品に過ぎないのだろうかとも思った。いかにもシャイなソン監督は、自己採点をやんわりと断っていた。
【10/28 土曜日】
『リトル・ミス・サンシャイン』(@渋谷オーチャードホール)
会場全体が泣きむせぶという状況を久しぶりに目の当たりにした。崩壊しかけた家族のロードムービーということで、家族の絆がどうやって回復するかというところが焦点になるのだけれど、その描き方がことごとくいい。たとえばギアボックスが壊れた黄色いミニバンを発車させるために、神経症気味の息子や色ボケの祖父らみんなで一斉に車を押し、エンジンがかかった瞬間に次々と車に飛び乗るのだが、その瞬間、理屈抜きの肉体的な一体感が生まれるのは一目瞭然なのだった。単純明快。心理劇に拘泥することなく、あくまで映画的発想(運動)で人と人の関係の変化が視覚的に表現される。細かい伏線が幾重にも張り巡らされた脚本は素晴らしく、また、その効果がことごとく表、表に出るのがいい。甘すぎるくらいの多幸感にすんなり溺れてしまえるのだった。
昨今の日本で異常に多く作られているいわゆる「感涙映画」は、今後『リトル・ミス・サンシャイン』を目標にすべきだろう。ここまでやれば文句はない。ただ、この映画の監督には、カップルであることの強みがある。何をもって「笑える」と見なし、何をもって「泣ける」と見なすかというところで、すでにあらかた濃密な客観化というか検証作業がなされていて、だからこそ「泣かす」にしても「笑わす」にしてもハズれるということがないのだろう。
総括
東京国際映画祭は10月29日で幕を閉じた。入場者数は78000人と昨年を上回る。主催者側は成功と振り返っている。さて、こうして短評のようなものを書きながら作品を追ってきたわけで、すると受賞結果も気にならないわけにはいかない。当日、会場には足を運べなかったので、インターネットから速報を仕入れる。
東京 サクラ グランプリ:ミシェル・ハザナヴィシウス『OSS 117 カイロ、スパイの巣窟』
審査員特別賞:ルー・ユエ『十三の桐』
最優秀監督賞:ジョナサン・デイトン&ヴァレリー・ファリス(『リトル・ミス・サンシャイン』)
最優秀主演女優賞:アビゲイル・ブレスリン(『リトル・ミス・サンシャイン』)
最優秀主演男優賞:ロイ・デュピュイ(『ロケット』)
最優秀芸術貢献賞:パトリック・タム『父子』
観客賞:ジョナサン・デイトン&ヴァレリー・ファリス『リトル・ミス・サンシャイン』
グランプリはフランスの新感覚パロディ『OSS117』に。評価される理由はなんとなく想像がつく。フランス人スパイの主人公が、アラブ人相手にこれでもかと帝国主義的偏見を披露する本作では、そうしたギャグが、また同時に鋭い自己批判にもなっている点、そこが見事だというわけだろう。ただし、パロディのダークサイドを云々したいのであれば、選ぶべきは『松ヶ根乱射事件』だろう。ポテンシャルで見れば山下敦弘の方が上だと思う。ついでにいえば、彼の前作『リンダ・リンダ・リンダ』はそれこそ『リトル・ミス・サンシャイン』に匹敵する秀作だったのだ。そんな山下が、あえてあの不気味な『松ヶ根乱射事件』を作ったことは注目されるべきだろう。長期的な視座にたって映画の未来への貢献ということを考えるならば、山下に受賞させたかった。『OSS117』はすでに本国で大ヒットを飛ばしているし、続編の製作も決定しているらしいから、是が非でも賞が必要ということではないとも思う。
さて、コンペティション全体を通しての感想であるが、見どころはあった。たとえば、ホン・サンスとエマニュエル・ムレと山下敦弘を三すくみにしてみれば、仏・韓・日本を代表するミニマルな会話劇の名手3人の饗宴ということになる。『グラフィティ』、『魂萌え!』、『リトル・ミスサンシャイン』を並べてみれば、「人情喜劇の復権」への手掛かりが掴めるかもしれない。破廉恥なほど扇情的な昨今のお涙頂戴映画と比べて欲しい。
ただし、新人監督の「新たな感性」にはお目にかかれなかった。どうも、ある種の「芸術性」への目配せに終わっている場合が多く、作品の選定も、結局こうした目配せにのっかってしまったようなところがあるのではないか。中国映画の3本の寓意性はどちらかというと単純に漫画的に思われた。
最後に、今回の一押し作品として改めて『グラフィティ』の名を確認して終わりたい。ロシア正教まで根を下ろしているだろう図像信仰の伝統もそうだけれど、猥談やらなにやらひっくるめて、想像力のかたちがまさに大地に根ざしている。いわゆる「大衆芸術」としての映画の命脈がまだ生きていることを確認させてくれる素晴らしい作品なのだ。第一、こんな顔をあなたは最近スクリーンで見ましたか?
[完]
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