フランソワ・ミュジー インタビューvol.1

インタビュー

Introduction

 2003年夏、ヨーロッパでは記録的な猛暑のために各地で山火事があとを絶たなかった。そんな中、わたしたちはスイスのローザンヌから車を飛ばしてイタリア・ジェノバへと向かっていた。当時、シルヴィオ・ソルディーニ監督作品、『アガタと嵐』(2004)を撮影中であったフランソワ・ミュジー氏にインタビューするためである。撮影現場は旧市街の古い建物の中にあり、スイスの静けさとは好対照をなしている。子供の叫び声、犬の吠える音などのイタリア特有の騒がしい雰囲気に、ミュジー氏の「シレンツィオ(静かに)!」という声が響き渡る。3ヶ月にわたる撮影も終盤、スタッフにも疲れが見られ、ステディー・カムでの難しいシーンはなかなか決まらず緊張した空気がみなぎっている。
 ミュジー氏は80年代以降のゴダールを語る上で欠かせないキー・パーソンのひとりである。ゴダールはスタッフに対して気難しいともいわれ、衝突の話もよく聞かれるのだが、ミュジー氏は25歳(!)で『パッション』(1982)の撮影に録音で参加して以来、今日までゴダール作品のほぼすべての音に関わり、その特徴的なサウンドを二人三脚で作ってきた。現在までに彼が録音・整音として関わった作品は80本以上。世界的に見ても指折りの録音技師・ミキサーである。

 撮影終了後、待ち合わせ場所であったホテルのラウンジに現れたミュジー氏は、疲れをものともせず、映画作りを始めた頃の話から整音の実際まで、深夜1時近くまで語ってくれた。忙しい中、貴重な時間を割いていただいたミュジー氏に、ここで改めて感謝したい。(インタビュー・構成:初井方規、土田 環、ヴィクトル・ガイヨ)



目次

1.映画制作の始まり
……すぐに自分が映像よりも音のほうに興味があるということに気付きました……
2.ゴダールとの出会い
……ゴダールのほうから誘われて最初はちょっとびっくりしました、さすがにまだ若かったですし……
3.監督とのコラボレーション
……必ずしも監督と同じことに関心が向いているわけではありません……

vol.2
4.映画音楽について
……企画の段階から決まっていることはほとんどありません……
5.フレーム外の音
……ゴダールは現場でおきている全ての音に興味がある……
6.音のリアリティー
……ストローブ=ユイレのシンクロの考えには理解できないのです……

vol.3
7.マルチトラック
……技術の進歩は素晴らしい……
8.音の響き
……『ヌーヴェル・ヴァーグ』(1990)は、CDとして聴けるくらいに音楽的なものに近づいていった……
9.音作りの全ての領域
……自分で録音した俳優の声は官能的に響くのです……
10.組んでみたい監督
……いまもっとも一緒に働いてみたい映画作家はイーストウッドです……


1.映画制作の始まり ……すぐに自分が映像よりも音のほうに興味があるということに気付きました……

──まず、どのようにして映画のサウンドと関わるようになったのでしょう? ミュジーさんはESAV[1]にいらしたということですが、ESAVは特に録音のコースを設けているわけではありません。

フランソワ・ミュジー(以下、FM):ESAVに入学したのは映画セクションができた初めての年ですが、初年度の授業というのが、これがまったく興味のわかない授業で。それで、初年度のクラスの9人の学生で、学長に抗議しにいったわけです。「これじゃ、まったく勉強にならない」ってね。そうやって学長から「わかりました。今年1年をこの先4年間の授業の準備期間としましょう」という返事をもらったのです。それでその後映画セクションの責任者となったフランソワ・アルベラ[2] であるとか、(映画監督の)フランシス・ロイセール[3]を教授としてセクションに迎えたり、ミエヴィルやゴダールに来てもらったりしました。そういったことが何年か続き、そうしながらこの美術学校に4年間通ったわけです。

──いつ頃のことですか。

FM 入学したのは1975年です。

──当時、スイスのフランス語圏には「グループ・サンク」[4] といった動きがありましたね。

FM すでに終わっていましたね、その頃は。

──でも当時から映画は見ていらしたのですか。

FM ええ、もちろん。ただ、本当に映画を作りたいと思うようになったのには、確かに「グループ・サンク」に関わっていた(アラン・)タネール、(ミッシェル・)ステール、(クロード・)ゴレッタといった人たちの影響が大きいです。ゴダールよりずっと前にね。映画に対する認識というものは、わたしたちの世代の場合、まず彼らの影響から始まったのです。当時のヨーロッパである一定の地位を確立し、観客に訴えることのできたスイス映画からです。あの時代、観客はタネールやステールの映画をよく受け入れていたし、『サラマンドル』(1971)などに至っては大変な成功でした。それに、映画が政治的だった時代でもあった。実際たくさんの作品が撮られていたし、今ではまったく考えられないことですが、当時の若者の間には、知的、政治的に社会参加した映画に関心を持っていた人は多かったものです。

──「グループ・サンク」の作家たちとの個人的な交流はありましたか。その頃は一観客として彼らの映画に接していたのでしょうか。

FM まったくの偶然ですが、一度ガソリンスタンドでタネールに会ったことがありました。1、2分ちょこちょこっと話をしたんじゃなかったかな。交流はありましたが、それは単に同じ街に住んでいて、たまたますれ違ったり、よく行っていたジュネーヴ大学のシネクラブにタネールが呼ばれて映画について語ったり、そういったかたちですね。当時ジュネーヴではCACヴォルテールという映画館が、ある意味本当のシネクラブとしてプログラムを組んでいて、一方では、大学のシネクラブで長い間上映禁止だった『愛のコリーダ』(1976)なんかをかけていました。あと、国連にもシネクラブがあって、面白いのが、検閲などでスイスで上映禁止になった映画も外交官の鞄に隠して持ちこまれ、それで上映することができていたことです。本当に、そういったところでいろいろな政治的傾向の強い映画を見ましたね。当時のわたしにとっては、さまざまな監督の発見、また発見でした。

──つまり、映画を作りたいという気持ちには、映画への愛情と同時に政治参加という意味もあったということでしょうか。

FM 映画を始めたのは……その前に電子工学をやりましたが、これはあまり好きになれず、その頃映画を作っていた連中に出会って短編を撮ったり……映画を作りたいという思いは15歳の時からずっと一方にあって、将来何をしたいのかもわからないまま電子工学をずっと学んでいたのですが、20歳になってディプロムをとった後、「電子技師になりたいわけじゃない」って、ぱったり止めてしまった。その後、美術学校であるESAVに入ったわけですが、当時の映画セクションの入学試験には課題作品の提出はなかった。要求されたのは自分の意思の表明であって、自分と映像に関わる何かを証明することでした。その時にそういう選択をしたわけで、後はタイミングの問題です。確かにパリなんかにある外国の学校も見に行きましたし、エコール・ルイ・リュミエール[5]といった学校もありました。ただ、当時は具体的に特に録音をやるということでもなくて、本当に何も知らなくて、ただ映画をやりたいという欲求だけだったわけですよ。だから映像、演出、録音それぞれに興味があったし、短編を撮っていた頃は、漠然とした考えしかなくて、特に録音にこだわっていたわけではなかったのです。

──ということは、すでに自分が作りたい映画のモデルとして政治的な外国映画があったということでしょうか。

  FM というよりも、わたしたちにとって映画の発見とは、まずタネールを見に行く、タネールの後にまた他の映画を見つけるというふうに始まっているわけです。劇場でいろいろな人に会い、どんな映画を見るべきかをそこで教えられ、またほかの映画を見る。それから、映画の始まり、初期映画の発見、その後はゴダールの映画、ヌーヴェル・ヴァーグの映画。そうするとその内部で早くから対立があったこと、ヌーヴェル・ヴァーグが始まって5年後には、それぞれの間にどんな違いがあったのか、誰がその違いに対して本当の美学を持ち続けたかといったこともわかってきます。

──道標ということですね。

FM 確かに道標だったし、彼らの映画製作に通底する問題を考えることでもありました。だから、美術学校に入ろうと思ったのは「録音がやりたい」というふうに決めていたわけではないのです。ただ、他の学生と比べてひとつだけ違っていたのは、技術的バックグラウンドを持っていたこと。そして幼い頃から音をいじっていたという……。

──その頃はジュネーヴにずっと?

FM そうです。スウェーデンの映画学校なども見に行きましたが。いい学校でしたね。

──ESAVに入る前のことですか。

FM そうです。入学する1年前のことです。ここでできることを外国にまで行ってやる必要はないという考え方が当時はあって、それならジュネーヴでやってみるか、という気にもなって。当時の美術学校自体そういった雰囲気の中にあったのですね。映画セクションに4年間通ったあと、またいろいろな人に出会いました。そのあとは偶然もあるし、また、偶然は自分で作るものでもある。ただ実際のところ美術学校に入ってから、ちょっとした機材を使えるようになって、すぐに自分が映像よりも音のほうに興味があるということに気付きましたけれど。結局のところ、誰もが最初に選んだ人生の方向へ向かうということですね。



2.ゴダールとの出会い ……ゴダールのほうから誘われて最初はちょっとびっくりしました、さすがにまだ若かったですし……

──ゴダールとは学校を通じて知り合われたのですか。

FM いえ、全然。

──ゴダールの作品に参加されたのは『フレディ・ビュアシュへの手紙』(1981)が最初となっています。

FM ゴダールとの最初の作品はそうです。

──すでに録音の仕事は始められていたのですか。

FM そうですね、1年ほどPR映画とか、短編とか、長編の劇映画の助手をやったり……。

──技師として始められたのは?

FM いろいろ偶然のめぐり合わせがあってのことですね。

──では、どういった経緯でゴダールと出会われたのですか。

FM ゴダールのほうから電話があったのです。

──えっ、そうなんですか!

FM  いや、とはいっても、電話帳でたまたま名前を見て、電話をかけてきたというのではないですよ。そうではなく美術学校にいた頃、わたしが録音に興味があったのをフランシス・ロイセールが知っていて、彼がゴダールに教えたわけです。当時ゴダールは『パッション』(1982)のスイス・ロケのため、録音技師を探していました。というもの、彼と一緒にやる予定だったジャン=ピエール・ルー[6]と1日だけ撮影をやったけれどウマが合わなかったからで、それでわたしに続きをやってみないかと持ちかけてきたわけです。

──ロイセール推薦だったわけですね。

FM そうです。ただ、その後はどちらかといえばゴダールのほうが「やらないか」と頼んできたので、最初ちょっとびっくりしましたけどね、さすがにまだ若かったですし。「ウイ」と言ってみて、失敗して辞めてしまう、あるいは「ウイ」と言ってみて、うまくいって続けていく、そういうことですよ。20年経ってみると、確かに当時は何も知らなかったけれど、同時に知らないからこそいろいろなことにオープンだったわけで、両方ありますね。でも同時に、何も知らないからこそいろいろなことにオープンになれたわけで、両方ですね。周りのスタッフに非常によくサポートしてもらえたおかげでもあるし。そこはチームプレーで、やはりプロの人たちでしたから。

──ゴダールと組む前に、彼の作品はよくご覧になっていたのですか? ちょうどゴダールが特に政治的に左翼化していった時期ですよね。

FM それはすべて見ていました。ただ、その頃の作品というのは特に興味のあった時期ではないですね。ゴダールの映画との邂逅ということでいえば……。

──『気狂いピエロ』(1965)ですか? それとも『勝手にしやがれ』(1960)?

FM いや、『気狂いピエロ』でもなく『勝手にしやがれ』でもなく……『ウィークエンド』(1967)です。いわゆる政治闘争の映画、要するに旗を振ってというのでなく、劇映画の形でありながら政治的意味を持った、それまでとまったく違った映画という意味で初めて衝撃を受けた映画だったんです。『ウィークエンド』で面白いのは、物語の構造を持った完全な劇映画でありつつも、作品の意図としては非常に政治的で、かつ闘争としての映画でありえている。これは素晴らしいことだと思いました。なんというか、そこが一番衝撃的だったわけです。その後、他の作品も見ることになるわけですが……。『勝手にしやがれ』は、それはそれで素晴らしいのですが、そこまで感動したというわけではない。結局、レトロスペクティブで一度にすべての作品を見て、「これは彼の処女作」といったふうに作品を分類していくと、どうしてももっとうまくいった部分がその後の作品の中にあるわけですよ、『軽蔑』(1963)みたいに。おかしなことに『軽蔑』は、20代の頃に初めて見ても、確かに知的に面白いと思いますが、もっと後になってから見たほうがもっと面白い。年をとってみると、意外にもまったく違う部分が印象に残ったりするわけです。

──最初にゴダールに会った時に、どのように『パッション』の企画を説明されましたか。

FM わたしにですか? 特になにも。ただシナリオがあって……説明といっても、こちらの意見を求めたりするのではなく、企画について、ここはこういうふうにやりたい、(撮影上)こういうことがあって、というだけで、先生ぶって説明をするのではないですから。

──とすると、ゴダールは録音の仕事にそう介入してくるわけではないと。

FM いえ、彼は自分のやりたいことに関しては明確です。ただ、映画における音の難しさというものは、常により後の段階で気付くことになるわけです。誰でも「そうそう、これでいい」、「そう、これで」と、その場で言っていても、実際には事前に話していたこととは違うわけです。もっとこう……例えば『パッション』だと、まずこの作品は絵画的な構成があって、そこに音楽がかかる、というのがある。それなら、まず音楽を録音しておいて、プレイバックで流す。そうすると、同録の音を録るなかでプレイバックをどうコントロールするかということになっていく。順々に解決していくほかないわけで、議論をしても解決にはつながらない。それに当時、といっても今でもですが、自分の考え方をはっきりと持っていて、他人に特に意見を求めようとは思っていない人と議論ができるだろうかという思いもあります。もし何か示唆するとしても、議論するというような形ではないですね。スタッフに会うのは、何か具体的な問題について話をする時です。そうはいっても、「この作品の主題に本当に興味を持っていますか?」と問い詰める人は後を絶たないですけど。



3.監督とのコラボレーション ……必ずしも監督と同じことに関心が向いているわけではありません……

──ゴダールが自分の考えをよく理解されていると思ったからこそ、後の作品でも一緒に仕事をし続けるようになったのではないでしょうか。

FM いや、というよりも、彼がそこで気付いたのは、作品の主題についてスタッフが興味を持つのは、必ずしも自分が関心のある部分と同じではないということでしょう。

──というのは、つまり監督の考えていることとは別のことを録音技師が作品に与えると?

FM そうではなく、録音をする時に起こりうる様々な問題は、監督や撮影監督が想像していることとは必ずしも同じではないということです。ときにはまったく間違った問題、ありもしない問題を聞かれたりもします。いずれにせよ、今いる場所からは逃れられない……単純なことです。簡単な例を挙げましょう。車に乗る。だけどエンジンがかからない。その時、恋人との約束があってどうしても約束の時間に行かなければならないとすれば、目の前の問題は先送りにしなければならない。そういったことです。つまり……あ、分かりにくい? つまりこういうことです。もし何か録音しなければならないとすると、まず何はともあれレコーダーがいる、ケーブルがいる、他にも必要なものがある。いろいろと気をつけることもあるし、よく考えるべきこともある。ただ、そこで録音について学術的な問いを立てたり、音の価値について考えてみても、それは意味がない。そういったことは後からついてくるものなんです。あるいは一度すべての機材の扱い方を習得した後に問題になってくるわけです。そこなんですよ、難しいのは。

 つまり、主題について議論するにしても同じ視点から見ているわけではない、やり方について同じような関心の持ち方をしているわけでもない、しかもお互いまったく違った考え方で同じボキャブラリーを使って話しているわけでもない。ただ、「こういうやり方でやってみれば、多分こんなふうになるんじゃないか」というふうに、お互いの考えを交換したり、理解しあったり、近寄ろうとするために会おうとするのは悪いことではありません。それでも間違うことだってある。なかなか難しいものです。今日技術というのは常にそういった難しい部分をはらんでいて、一方ではものすごく高度化していて、それでいて(画面上では)それが見えないようにしなければならない。そこからまったく解放されていなければならないのです。

 とはいえ、録音技師にとってまず問題となるのは常に同じことです。例えば3人の俳優がいるとして、彼らの言ってることはどうでもいいのか、それともきちんと聞こえなければいけないのか。おそらく監督の99%が求めているのは「わたしの書いた台詞がきちんと聞こえるようであってほしい」ということです。とすると、まずそこは落とせない。その後どんな理論付けをするのも勝手ですが、その前にやらねばならないことがある。その時どうするか。その後に様々な独創的なやり方も出てくるでしょうが、ただ独創性というのは、それぞれの企画から生まれてくるもので、結局は監督のものなわけです。録音技師は監督の考えに沿って動くのであって、作品にはそこが違いとして現れる。ただ、それは監督の音に対する感受性や、取捨選択のしかたといったことです。



vol.1 vol.2 vol.3


脚注

1. ESAV
Ecole supérieure d'arts visuelsの略。ジュネーヴ高等視覚芸術専門学校。映画の専門学校ではなく、日本の芸術大学・美術大学にあたる。現在はESBAに改称。

2. フランソワ・アルベラ François Albera
主な著書に、Les Formalistes russes et le cinéma: poétique du film, Éd. Nathan-Université, 1996.「ペドロ・コスタ、閉域の詩学」,『ペドロ・コスタ 世界へのまなざし』所収, せんだいメディアテーク, 2005. など。現在はローザンヌ大学映画史映画美学科教授。

3. フランシス・ロイセール Francis Reusser
1942 年ヴヴェ生まれの映画監督。ナポレオンのスイス侵攻時のレジスタンスを扱った『La guerre dans le haut pays』(1994)などがある。

4. グループ・サンク
1968年、パリの五月革命の影響の下、タネール、ゴレッタ、ステールらによって設立された自主映画のプロダクション。彼らの作品によってスイス・フランス語圏の映画は国際的に注目されるようになった。

5. エコール・ルイ・リュミエール Ecole Nationale Supérieure Louis Lumière
フランスの国立高等専門学校。映画部門、音響部門、写真部門があり、音響に関する教育の水準の高さはヨーロッパの中でも指折りである。

6. ジャン=ピエール・ルー Jean-Pierre Ruh
フランスを代表する録音技師。録音を担当した監督作品にはフランソワ・トリュフォー、エリック・ロメール、フィリップ・ガレル、ジャン・ユスターシュ、アラン・レネ、ロマン・ポランスキー、ヴィム・ヴェンダース、セルジオ・レオーネなど枚挙に暇がない(参考: )http://www.elison.biz/ruh.htm

05 Sep 2006

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